読書:人新世の「資本論」その2

閉鎖的技術と開放的技術


人新世の「資本論」 (集英社新書) (日本語) 新書

人新世の「資本論」のP.226に以下のような一文があった

「開放的技術」とは、「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術である。 それに対して、「閉鎖的技術」は、人々を分断し、「利用者を奴隷化し」、「生産物ならびにサービスの供給を独占する」技術を指す。

ちょっと括弧の付け方とか恣意的だなと感じる部分はあるが、そういう区分けがあるんだなと理解した

そして、さらに以下のように続く

例えば、閉鎖的技術の代表格は原子力発電である。長らく、原子力発電はクリーン・エネルギーとされてきた。 だが、原子力発電はセキュリティー上の問題から、一般の人々から隔離され、その情報も秘密裏に管理されなくてはならない。 そのことが隠蔽体質につながり、重大な事故を招いてしまう

これを読んで思ったのは、別に原子力発電に携わっている人、みんながみんな隠蔽体質だってわけではないんだよなってこと

でも、それでも結果として隠蔽体質であるかのように思われてしまったり、見えてしまったりという構造があるんだなってこと

その構造が、とても危険なものを扱っていることによるセキュリティー上の問題であって、そこは確かに広く周知することは難しいだろうということは理解できる

ということは、どうしたって一部の人しか分からない状況っていうのが出てきて、それが悪い結果(事故など)と結びつくと、それがあたかも隠蔽体質であるかのように扱われてしまうのだろう

でもこれを構造のせいだけにすると、狙って隠蔽体質になっている人の都合良い言い訳にもなってしまう、というなんとも言えない状況がある

要はセンスの問題なのでは?

なので、構造的に問題が発生してしまうような所に閉鎖的技術を使ってしまうことを、チョイスしてしまうセンスが良くないってことになるのだと思う

この辺りのセンスを磨いて、最初から悪手に向かっていくようなことを選択しない、という賢さを得る必要があるし、閉鎖的技術=全て悪、と決めつけないで適材適所に閉鎖的技術と開放的技術を使い分けるセンスっていうのも必要なんだろうなあと、感じている

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